標準を求めない

昨日書いたことと少し関係します。
月曜に届いた、村上龍さんのメルマガ、
この日のテーマは、

 先週内閣府は、70万人の引きこもりがいるという推計結果を発表しました。雇用の不安定さが一因だと思われます。財源が限られている日本政府ですが、どのような雇用政策が可能・有効なのでしょうか。

というものです。
評論家:水牛健太郎さんが書かれていた内容一部引用します。
全文はこちらからどうぞ。
JMM | 村上龍電子本製作所
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/article628_2.html

私が子供のころを思い出しても、社会の中にはかなり多様な人がおり、危ない人、奇妙な人というのも町のあちこちに存在していたと思います。人づきあいの苦手な変人も数多くいました(私も個人的に、かなりそうした人に近い資質を持っていると思います)。社会というのはそういうものであり、「何年も家の中に閉じこもってめったに出てこない」というのも、大きな害がなければ個人の自由だという言い方もできます。


 そうした寛容さは、最近の社会ではむしろ失われています。働く人の多くが会社員になったことと機を一にして、価値観の単一化が進み、変人たちは町から姿を消していきました。皆が常識を備えた社会人として、毎朝同じように起きては会社や学校に行かなくてはならなくなったのです。


 そうした「ゆるさ」や「いい加減さ」を容認しない現代の厳しい学校や職場の環境、どこか深みを欠いた単色の人間関係こそが、若者の防衛反応として、引きこもり現象を生み出している面も確実にあるのではないかと思われます。ですから、あまり神経質に引きこもりをどうこうしようということになると、逆効果なのではないかと思います。

人に対する、幅が狭くなっている。
健康の尺度が決まり、それに対応していないと不健康。*1
学校に行かなくてはいけない。
働かなくてはいけない。
それが、緩やかではなくて、かなりキツイ。
標準、を守るのが大変です。
すべてにおいて標準を求めないことに、幸せへの道があるのかもしれません。
人それぞれ、もって生まれたものはあります。
全部が標準以上の恵まれた方は少ないのだと思います。
一芸に秀でろという話もよく聞きます。
その通り。
でもバランスも大事。
その通り。
正解はないのかもしれません。
全部恵まれていても、自分の劣る面あえて見つけて、修正試みたりしていそうですね。
努力の好きな人っていますね。
それが楽しくできれば良いのではないか。
そう思います。


標準にはまるため、個性が潰されていくのかもしれませんね。
でも、競争社会、標準では辛い。
勝ち抜いていくには、その標準を超えた上位数%に入ることが要求されているのだと思います。
そう考えることに、喜びを感じる人、苦痛に思う人。
どっちもありですね。
たぶん、今必要なのは、様々な価値観の提案ではないかと思います。
みんなが、同じものを求めていたのでは、そのものの数に限りがある場合、入手困難。
ものにたとえましたが、ものではない場合も多いですね。
そのなかで、他人にとっての価値がどうあれ、自分にとっての価値を見つけることが出来れば素晴らしい。
プレゼン、の上手な人って、その自分にとって価値のあるものを入手または、オーソリティーになって、
その素晴らしさを、多くの人に理解してもらうことが出来る人かもしれませんね。
それから、起業するなどして成功する。
その時世間は、「先見の明がある」などと言うのかもしれません。
成功と一口に言っても、コレの価値も色々。
他人から見たら、チットモ成功しているように見えない成功。
これもありですね。
でも、成功している人が幸せとは限らない。

「ゆるさ」や「いい加減さ」を容認

自分に対して、厳しい人。
特に作られたものの精度には認められないことでしょうね。
一時「ファジー」って言葉流行しましたね。
容器
別の言い方をすれば、
「社会」とか、個人のもっている「心の幅」とかね。
は、「ゆるさ」や「いい加減さ」を容認していかないと、皆が暮らしにくくなるのだと思います。
みんなの幸せは、そんなところから見つかるかもしれません。

*1:私も、昨日虫歯のない生活求めて、歯医者行きました