パルチザン伝説

supiritasu2005-10-18

桐山襲(きりやまかさね)という作家をご存知ですか?
デビュー作は「パルチザン伝説」です。
このデビュー作で大変な目にあってしまいます。


以下記述の年号の部分は
未葬の時 (講談社文芸文庫)
の年譜を見ています。―――――→


1982年(作者33歳)「パルチザン伝説」が文藝賞の候補作となります。
その後文藝賞の受賞は出来ませんでしたが、
1983年「文藝」10月号に掲載されます。
ここから事件が起きます。
かなり長くなりますが、

パルチザン伝説―桐山襲作品集

パルチザン伝説―桐山襲作品集

の あとがきと刊行の辞 を全文引用します。

あとがき        
 「パルチザン伝説」は予想だにしない数奇な運命を辿ってまいりました。
 ことの始まりは。昨年の九月、文芸雑誌に掲載されてから三週間後に、<S>という著名な出版社の週刊誌が、「『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」という兇々しい見出しを掲げて作品を取り扱い、「第二の風流夢譚事件か―」と、きわめて意図的な宣伝を展開したことに在ります。(この週刊誌の流儀に従えば、『源氏物語』などは、さしずめ「天皇家の姦通を扱った小説」という具合いになってしまうことでしょう)。
 週刊誌がこのような形で取り扱えば、たとえその作品がどのようなものであれ、結果は火を見るよりも明らかです。
 案の定、その作品を単なる〈不敬譚〉であると取り違えた右翼団体の攻撃によって、単行本化は中止されました。
 この辺の事情については、「亡命地にて」に書いた通りです。
 さてしかし、「パルチザン伝説」厄災は、それにとどまりませんでした。
 というのは、単行本化が中止されてから半年後、つまり本年三月に、東京の或る出版社が、突如として作品を出版してしまったからです。
 『天皇アンソロジー1』と銘打たれたその本は、様々な政治的文書といっしょに私の作品を収録していました。しかし、私の作品が政治的文書とは表現様式を異にする一個の文学作品であってみれば、そのような出版形態は作品としての自殺行為以外の何ものでもありません。その出版社の意図は、作品から単に素材だけを抜き取っているという点で、例の週刊誌記事と同様の水準に立っているということができます。
 その出版社からの申し出を二箇月ほど前に聞いていた私は、一度めは文芸雑誌の編集部を通じて、二度目は書簡によって、三度目は電話によって、そして四度めは信頼し得る知人を通じて、きわめて明確に申し出をお断りしていました。しかしその後、その出版社からは何の連絡もないまま、先に述べた通り、略奪行為は現実のものとなったのです。
 自分の作品が怪文書まがいの姿で並べられることは、表現者として耐え得ないものがありました。小説の「のざらし」は余り風流なものとはいえません。
 しかし今日、〈刊行委員会〉の皆さんの手によって、「パルチザン伝説」は私の作品集に収められ、最もふさわしい姿で出版していただけることとなりました。
 私は推敲を重ね、作品の完成を期しました。
 「パルチザン伝説」は、様々な試練に耐えて、遅ればせながら、文学作品として自らの正常な位置を回復することができたといえましょう。
 勿論、既に豪勢な海賊版が出されてしまっているために、この本はきわめてわずかな読者しか得ることが出来ないかも知れません。しかしこの間海の向こうで作品を支えてくださった多くの人々の何本もの手を、私はまるで目の前にあるもののように感じています。一個の作品を誕生されるために払われた多くの方々の熱と力に比べれば、作者の果した役割は、実にわずかなものだと言うことが出来るほどです。―本当にありがとう。
 「パルチザン伝説」はあなた方と共に、いま、ここに在ります。


     一九八四年五月 南風(はえ)吹くしまにて
                               桐山 襲




刊行の辞
 わたしたちは、雑誌「文藝」一九八三年十月号掲載の桐山襲作「パルチザン伝説」をめぐる一連の事態を、言論に携わるものにとって看過できない問題として注視してきた。
 言論の自由に対する右からの攻撃に対して為すところなく蹂躙に委かせたことは、共に遺憾とするところである。また文芸作品をもっぱら興味本位に取り上げこれを挑発した週刊誌記事、攻撃の実態を明らかにすることなくひとり自主規制の道を選んだ版元の姿勢、そして著者の意思をふみにじり無断刊行した出版社、及び事態に対する無責任な発言、報道、これらはいずれも今時の言論表現の自由を守る上で出版人自らも大きな禍根を残したというべきであろう。
 こうした気運を放置することは執筆者・版元間に一層の自主規制を強いる危険につながる。一遍の小説を現実に守りえずに如何なる言論の自由も存在しない。すべての言論人は己れ自身の問題としてこれを肝に銘ずべきである。
 わたしたちはいっさの表現の自由の侵犯に対する抗議の表明として、ここに桐山襲作品集を著者の望むかたちで刊行する。
   一九八四年五月  


                              刊行委員会記


全文載せるの大変でしたが、こういう志の高い文章を私の都合で一部を抜き出すことはとても出来ませんでした。
30代前半のまだ本も一冊も出してない新人の作家が背負うには余りに重たいことだと思います。
この本はそういうたくさんの志の集まった本です。
作品集とあるように、「パルチザン伝説」と「亡命地にて」の2作品載っています。
私はこの本のことを、当時の朝日新聞手帳欄の13×14cmほどのこうした経緯を紹介した記事によって知りました。(この切抜きは本にはさんで保存してます)


今日は書きませんが、出版界にとって風流夢譚事件というのは重くのしかかっています。
桐山さんも命の危険があるわけでして、
「亡命地にて」に書かれているようにごく一部の人を除いて、
行方知れずになってしまうわけです。
10月9日書いた素九鬼子さんとは、
全く違った事情で、覆面作家といってもよい様な状態でのデビューとなってしまいます。


週刊誌の〈S〉の発行元は誰もが知っている大出版社です。
小説類もかなり出しています。
週刊誌部門は、内部では独立しているのでしょうが、
勿論言論の自由は認めますが、余りに軽率ですね。
もしこの記事が無かったら・・・・
と思うことあります。


パルチザン伝説」の一連の経緯については作者自身が、
1987年に作品社より、
パルチザン伝説」事件
という形で出版されています。


その後桐山さんは
1984年文藝6月号に「スターバト・マーテル」(第91回芥川賞
   補作)を発表
   文藝11月号に「風のクロニクル」発表
1985年1月「風のクロニクル」が河出書房新社より刊行
     第93回芥川賞候補作品となる。
結局芥川賞は受賞されませんでしたが、
その後順調に作家として仕事をされていました。


私は「風のクロニクル」で南方熊楠氏のことをはじめて知りました。
この本のおかげということは全くないと思いますが、
その後南方熊楠氏はかなり話題になって、
少年ジャンプで生涯がマンガで紹介されたりしてました。
私はブームになる前に知ることが出来たということですね。


桐山さんの詳しい情報は、デビューの経歴から私もほとんど知りませんでした。
その辺のところは上に写真のある、
「未葬の時」が一番詳しく出ています。
この文庫は、芥川賞候補になった上記2作品と遺作になった「未葬の時」
の3作品が収録されています。
この文庫は1992年3月23日に悪性リンパ腫に肺炎を併発して42歳で無くなった後に出版されています。(1999年)
ですから桐山さんが亡くなったので詳しい年譜も載せられたということになります。


試験が終わって時間が出来たときに書こうと以前から思ってましたが、
あれこれ調べながら書いたので、
3時間弱もかかってしまいました。