基準がネ?

一昨日の(25日)朝日・夕刊19面(手元の新聞では最終面)右上。

鈴香被告に死刑求刑

と、児童連続殺害事件についての記事出ています。

検察側は論告で、2人の幼い命を奪った結果の重大性や遺族の処罰感情を指摘した上で「反省がみられず、矯正不可能。人の心、親の心を持ち合わせておらず、救いようの無い人間だ」と主張し、死刑を求刑した。

とのことです。
検察側はこのような主張いつもしていかないと、被告に刑罰を宣告することできないのかもしれませんね。
でも、検察側の主張こそ救いようがない気がします。
矯正不能=死刑
この流れ、あまりに短絡的過ぎるように思います。
私、この手のニュースを取り扱う、TVや雑誌好きになれません。
ですので、きちんと見たり。読んだりしているわけではないのですが、
彼女が、このような犯罪を犯すようになった理由。
子供を授かる前の段階であったような気がします。
殺人は許されることではありませんが、彼女を追い込んでいった人達いそうな気がします。
そのへんは弁護士さんの仕事になるのでしょうね。
でも、この事件に対し、報道機関の取材も過激だったように思います。
もし、これだけ話題になって、逮捕前から連日報道されて、話題になっていなかったとしたら。
もっと求刑軽くなっていたのかもしれません。
検察側も、世論の盛り上がりを考慮して死刑の求刑をした。
考えてみたら、報道機関が、罪を重くしてしまった。
そういうことも言えそうに私には思えます。


求刑、要するに罪の尺度、又は罪の重さは、報道によって左右されるようなものであってはいけませんね。
でも、私たちの持っている尺度はそんなに確固たる物なのでしょうか?
罪に対する絶対的な尺度は誰も持ってないのではないでしょうか?
そうした中で、1度世論に刷り込まれた、マイナスイメージは、
たとえそれが真実と違うものであったとしても、
それを正しい方向へ、マイナスのイメージを持たれた個人の力でもっていくことは、まず不可能なのではないか?
そう思います。
松本サリン事件の河野義行さんの事例を忘れてはいけないと思います。
報道しないといけませんが、事件の真実を究明しているのではなく、
ただ単に糾明しているだけになっていないか?
もし、自分が河野さんの立場になってしまったら?
そんなこと考えると、いまの世の中怖い気がします。


この事件、裁判が平成21年(もう来年です)に行われていたら、
この年スタート予定の裁判員制度で取り扱う事件の対象になります。
推定無罪*1
「罪を憎んで人を憎まず」
そんな言葉もありますが、
今回の事件で検察側は、
「矯正不可能」
「救いようの無い人間だ」
との主張です。
皆さんは、この事件の裁判員になったつもりで、
報道に惑わされること無く、
自分の確固たる罪の尺度で、
鈴香被告に判決言い渡せますか?

*1:殺人が自供により、ほぼ確実な場合で、しかも検察の死刑宣告との比較でこの表現不適切かもしれません。でも鈴香被告がまだ犯人かどうかわからない段階で、報道は推定無罪の姿勢ではありませんでしたね。こういう姿勢は問題ありだと思います。