河野さん

今朝の朝日・朝刊、天声人語引用します。
天声人語:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/paper/column.html

「あなたを誇りに思う」と人に言ったことはない。だが言いたいと思う人はいたと、哲学者の鶴見俊輔さんが近刊の『思い出袋』(岩波新書)に書いている。数少ない一人が松本サリン事件で容疑者扱いされた河野義行さんだった▼河野さんは妻が事件で昏睡(こんすい)状態になった(一昨年に死去)。だが、オウム真理教破壊活動防止法が適用されるのに異を唱えた。「オウム憎し」で突き進む社会の危うさを、私情を超えてとらえていた。「こういう人が日本人にいるのを誇りに思った」と87歳の鶴見さんは回想している▼そんな一文を、警視庁公安部長の記者会見に思い出した。時効を迎えた警察庁長官銃撃事件を「オウムの組織的テロ」と断定した。ならなぜ捕まえない、と誰でも思う。負け惜しみ、腹いせ、面子(メンツ)…。警察組織の私情を丸出しにした印象が強い▼事件を裁判の土俵にのせるのが警察の仕事である。それが出来ずに「やったのは某」とネットで公表するのは、暗い顔の「仕置き人」さながらだ。公益性を盾にしても、ことの色合いが危うすぎる▼警察は真相に肉薄していたのかもしれない。だが100点が必要なときに90点しか取れなくては、プロの仕事として失敗なのだ。無念を禁じ手の域で晴らそうとする図は、奇異を通り越す▼たとえオウムに対しても、法や公正さを軽んじるべきではないと、かつて河野さんは小紙に寄せた。鶴見さんが「誇りに思う」ゆえんだろう。逆の粗雑さが当局になかったか。この人のような揺るがぬ背骨が、法治国家の警察にほしい。

被害者の気持ちどこまでわかれるのか?
「加害者を死刑にして欲しい」
望む被害者に、死刑制度に反対だからって、
「それは違います」
とは言えません。
まして、
「自分の家族が同じ目にあって、それでも同じことが言えるのか?」
と聞かれたら、答えようがありません。
同じことが言いたいです。
でもそれ以前に、そんな状況に自分が置かれることが無いように願うこと。
それが優先されます。
今日の天声人語、河野さん被害者です。
この逸話今日まで知りませんでしたが、
鶴見俊輔さんが言うように本当に河野さん人格者と一言で終わらせられないくらいに、素晴らしい。
問題はやはり警察、
河野さんと比較してしまうと、確かに。
身内のトップが狙われた事件ですが、面子とかにこだわって、憎しみの元に冷静さの無い捜査が行われたのでは私たち一般人も不安になります。
ただ、このような会見があったにせよ、最終的に証拠不十分ながらオウムの逮捕者を出さなかった。
ということで、冷静な判断を下した方たちもいたわけですね。
逮捕しようとする勢力も当然内部ではあったわけでしょう。
その方たちの気持ちを納めるための会見だっといえるのかもしれません。
警察組織には、河野さんの人格を求めたいですね。