有限の生態学

少し前日曜の朝日、書評欄の筒井さんの連載の中で、紹介されていた。
栗原 康さんの「有限の生態学」読みました。

有限の生態学―安定と共存のシステム (1975年) (岩波新書)

有限の生態学―安定と共存のシステム (1975年) (岩波新書)

本当に筒井さん様々なジャンルの本を読まれていて、教養の深さ半端じゃないですね。
岩波新書なのですぐに買えると思っていたのですが、絶版で入手不可。

図書館で、今月の頭に予約していました。
朝日で紹介されたからでしょうか、貸し出し中でした。
昨日やっと準備ができた、とのメールが来ていたので、借りてきたわけです。
1975年35年前の本です。
でも、内容少しも古くなかったです。
今、必要なことが既に書かれていた感じしました。

貸してくれたのは、新書の方ではなくて、岩波の「同時代ライブラリー」の方でした。

有限の生態学 (同時代ライブラリー)

有限の生態学 (同時代ライブラリー)

でも、コチラも既に絶版。
図書館で借りるか、古本見つけるしかないです。
生物学の本読んだのって、高校の生物の教科書以外だと、子供の頃「ファーブル昆虫記」読んで以来かも?しかも、全部ではなく1冊ぐらいしか読んでないです。(^_^;)


内容ですが、
竹の煮汁を瓶に入れて3ヶ月放置していたら、
バクテリア・原生動物・クロレラ・らんそう・ワムシがいて、
その3ヵ月後にまた観察してみたら、同じように生存していた。
「ミクロコズム」というそうです。
5種類の生物が、バランスを保つことによって、永久機関のような生態系が維持できています。
バランスが崩れると、みんな生きていけないようですが、良いバランスを自然に保つそうです。
なかなか面白いですね。これが第1章。
第2章は、牛の胃の中。
これも自然の仕組みが利用されていて、「ルーメン」と言うそうです。
牛は草を食べますが、そこに含まれるセルロース(繊維素)は消化できないそうです。(私たち人間も消化できません。)
牛の胃は4つに分かれていて、食道につながっている第一胃に、バクテリアとか、原生動物とかが多品種生存していて、「飼っている」というべきでしょうね。それらの力を借りて栄養として取り込んでいるそうです。
牛自身も胃に1度送ったものでも、咀嚼(そしゃく)を繰り返して消化を助けているわけです。
胃の中が小宇宙ですね。
そんなようなこと聞いたことありましたが、この本のおかげでなんか納得してよく理解できました。
うし・ひつじ・やき・しか、などの主食が草の生き物は、人間と食べ物が違うので、食べ物奪い合うことがないですね。
それに対して、豚や鶏は人間と食べ物が同じ。
目からウロコでした。
第3章:宇宙基地物語
第4章:安定と共存のシステム
となっています。


今の、地球環境を人類が乱していること感じますね。
新書が書かれた1975年より深刻な問題になっていますね。
そのことについては、同時代ライブラリー用に書かれた「安定と共存をめさして」という後書きがよかったです。
(新書版との違いはこの分部だけだと思います。)
最後に、この後書きの一部引用します。206P途中から207P途中です。
 

 ここで、人間にとっての自然環境の意味について深く考えてみる必要がある。なぜならば、すでに宇宙基地の項で述べたように、有限性はシステム化をもたらし、そのことはとりもなおさず自然環境からの離脱を意味するからである。私は、現代人の肉体と精神の虚弱化は、人間が生き生きとした自然から急速に離れてしまったことに多くの責任があると考えている。このことは、現代の人々の多くが、もはや都市という人工システムを離れては生きてゆけなくなっていることからもわかる。システム化にともなう脱自然によって、生物学的にも社会学的にも「自立性」を失ったのではないだろうか。
 それではなぜ脱自然は自立性の喪失につながるのだろうか。動物行動学や生態学の成果は、生物のもつ自立性はそれ自体自然界の秩序をもたらすことを教えている。動物はもともと高いポテンシャルをもった能力を遺伝的にプログラムされており、自然環境から発する信号刺激は、その能力による暴走を防ぐように抑止して、秩序を生み出している。これはちょうど、自動車のアクセルとブレーキの関係に相当するかもしれない。 
 一方、人間は技術の力で自然からのブレーキ、すなわちマイナス作用のほとんどを自らの手でもぎとった。そのために淘汰がうまく働かなくなり、心身の虚弱化をまねいた。また技術によって不快な状況を取り除いたために、不快な状況が克服された後でなければ得られそうもない「快」を持つことができなくなった。かくして、インスタントな快楽を次から次へと追い求め、このことが商業主義と正のフィードバックを形成して、使い捨て文化を引き起こし、それによってわれわれの感性はますます衰退の方向に向かいつつある。
 外部からのマイナス作用因を取り除くことによってもたらされるもうひとつの重要な問題は「種内」競争である。競争にかりたてる動機づけは競争に負けるかもしれないという不安をもたらし、それにともなう不幸に対する不安が、現代人の健康を破壊しつつあることは周知の事実である。

ここまでにしようと思ったのですが、これでは不安が残ったままですね。
最後の版元へのお礼の言葉の手前まで引用します。207P後半から208P終わりです。
解決するわけではないですが、今必要な課題が見えてきます。
そう、この課題今見ても、かなりハイレベルな課題です。
既に違う方向に行っていて軌道修正が必要な感じ受けます。
気になった方は、本体をお読み下さい。

 私はこの書の中で、ミクロコズムと宇宙基地の対比から人工システムの中に生命体を組み込むことの危険性を指摘した。現在世上に流布している「地球時代」という言葉が、もし宇宙基地型システムにおける共生関係の地球レベルの拡張を志向するものであれば、これははなはだ危険な兆候だと言わなければならない。なぜなら人工システムにおける生命体の存在様式は、ミクロコズムの原理によって動いている生命体のそれとは別物であり、また過度にシステム化された社会における人間は「自立性」を喪失した部品と化すからである。
 これから先、世界はますますシステム化に向かおうとしているが、それがきびしく、かつ巨大化すれば、すでに述べたようにカスタロフィの危険をはらみ、カオスの世界に変転するかもしれない。グローバルなシステム化の恐怖の中で安定と共存をはかるために今われわれに求められているものは、失われた「自立性」を取り戻すことではないだろうか。それは自然環境のもつ情報性と、文化によって醸成される「過去」の価値観によって支えられた思考と行動様式と情操のなかに求めることができる。つぎに重要なことは、このような価値観に基づいた望ましい科学技術の進歩に希望を託さざるを得ない。それは、人間に生きる希望とやすらぎを与え、自然環境への圧迫を少なくするものでなければならない。そして、このような文化と科学技術をはぐくもうとする努力の中に、安定と共存への道を見出すことができるのではないだろうか。「有限性」の科学は、自然科学、社会科学、人文科学を包摂した総合的な二十一世紀の人間学、すなわち生存の科学といえる。

 
この後書き、1994年7月、今から15年以上前に書かれています。
著者の栗原さん、2005年12月7日にお亡くなりになっています。
今、ご意見が伺えないのは残念です。