反体制という生き方

昨日の続きっぽい内容です。


「反体制」って響き私好きです。
ですが、権力側が弾圧をした場合、
ほとんどの場合反体制側はどうしょうも無いですね。
これ事実です。
日本では、戦後体性が変わっていますが、これは内部から変わったのではなくて、
戦争に負けて、外部(具体的に書くとアメリカ占領統治と言うことでしょうか)によって、
新体制がもたらされたわけでして、
その新体制も天皇制を維持したので、
戦前と、戦後。
民主主義がより強化された分部あるのかもしれないですが、
戦犯だった人が戦後復活して政治の世界に戻ったり、
東京裁判A級戦犯として裁かれた人たちが、本当に戦争責任者だったのか?
誤解を招かないように思うところ詳しく書くと、
A級戦犯も戦争責任者ですが、他にももっといそうな気がします。
例えば東条英樹だってコマの一つに過ぎないのではないか?
そんな疑問があるのです。


例えばドイツ。
昨日書いた映画の舞台ですが、
ヒトラーがいて、ナチス党があって、戦争体制ができていました。
その基盤が戦後全てなくなって、政治の運営に連続性が無い感じします。
私たちの日本も、連続性が無いのでしょうが、
戦前戦後を体験していない私からすると、ドイツほど戦前戦後が断ち切れていなくて、
私の歴史観が少し変なのかもしれませんが、連続性を感じています。


反体制の話でしたね。
体制が、右よりであろうと、左よりであろうと、
その体勢に対して、右か左に強く振れていれば反体制とされてしまいますね。
戦争向かう日本の中では、
二・二六事件の首謀者とされて、右よりの北一輝さん、
北一輝 - Wikipedia
逮捕されて死刑にされていますし、
(これも本当の首謀者って別にいた気がするのですが、軍の一部の暴走って感じになっています。二・二六事件って1936年(昭和11年)の出来事なのですが、どうも近代史と言われる時代であっても歴史の事実がウヤムヤの分部多いですね。これは私たちの国に限ったことではないのかもしてませんが)
左よりの、共産党関係者も政府によって弾圧されていますね。
戦争に向かう過程で私たちの国は、右も左も体制に対して振れの大きな思想は弾圧したわけです。


なんで、こんなこと書いているのでしょう?
昨日書いていた映画の主人公の姿勢が潔すぎて参っているからです。
ナチスは悪!
これもう一般的なイメージとして定着しているので、
映画の主人公、悪に立ち向かった勇気ある女性と言うことになりますが、
はっきり言って無駄死にですね。
だけど、自分の命をかけざるおえない、反ナチと言う自分の意志を通していく美しさを感じました。
しかも、駆け引きを拒否する若さも素敵でした。
考えようによったら、今の日本政府に対する反政府活動を行う事だって、
似たような分部あると思います。
この映画(白バラの祈り)の凄い所は、反体制側が全く非暴力ですこしも戦闘的でないところです。
逆に体制側が、反体制のビラを配っただけの若い人を5日間の裁判で見事に死刑にしてしまうことを描くことによって、体制側の暴力性がより強く表現されていることですね。
戦争中日本も多くの命を失いました。
東京だけでなく日本中が空襲にあって沢山の民間人が死んでいます。
それでも、
「この戦争は勝てる」
そんなふうに思っていたのでしょうか?
その時、やっぱり普通の人だって思ったはずです。
「この戦争は負けるんじゃないか」
って。
でも、それを誰も公に口にできない体制が作られてしまったわけですね。
映画の主人公が命をかけないとできなかった、反体制のビラ配り、
今の日本では許されていますね。
こういう分部は今後も守って行くべきですね。
「反体制であっても、暴力に訴えず、言論に訴えるのであれば、誰もが認めて主張しあえる時代」
大切に守っていきましょうね。


江戸幕府を倒した明治政府だって反体制です。
革命に成功して体制になりました。
そして今があると思います。
そうですね、私たちの国は明治維新が自分たちの手で国の体制を変えた最後といえそうです。
教科書で「大正デモクラシー」習いましたが、
大正デモクラシー - Wikipedia
そんな民主的で、自由な空気を自分たちで作ることもできたわけです。
そこから戦争へと至る道筋があったわけで、
そういう空気を早めに察して、体制が私たちに牙をむくようなことの無いようにしっかり監視しないといけませんね。