裁判員裁判で、死刑を語ること。

昨日書いたこと、書き足します。
死刑の判決を受けた人の事ではなくて、
死刑制度に反対なのに、死刑判決を出す可能性がある判決に参加してしまった裁判員について、
自分がそうなってしまったら、そういう思いで、
具体的にね。


例えば、5人裁判員がいるのなら、日本人の中に20%以上は死刑制度に反対している人とがいると信じたい。
となると死刑に反対している人を一人も裁判員に入れないってことは、
国民の意見が反映されない事になるはず。
被告が死刑になる確率が裁判員を選んだ段階で、一般国民の意識より高くなるって事を表していると思う。
でも、死刑制度に反対している人が裁判員に選ばれた場合を考えて、その裁判で、死刑の判決が確定してしまった場合。
たとえその方が死刑反対の答弁と投票をしたとしても、死刑判決を阻止する事ができなかったということ、自分もその死刑判決を出した裁判に参加していたという事実は重いと思う。
その後のその方の精神に与える影響、個人差はあるのでしょうが、そこを私考えてしまいます。
私がもしそういった裁判の裁判員になった場合、死刑判決が出そうになったら、阻止するために、その事件そのものを判断するのではなく、死刑の判決を出すこと自体に異議を唱えて、参加している裁判員さんたちが、死刑の判決を下そうとしている事に対して、その方の考えかたを、「それで良いのですか」「後で後悔しませんか」というような、方向に審議を持っていってしまいそうな予感がします。
それに対して反論があった場合、益々事件そのものと話し合っている内容が離れていってしまいますね。
それは良くないかもしれません。
確かにそういった議論必要だと思いますが、それは個々の事件について話す以前にしておくべき話だと思います。
死刑制度を廃止するべきだと考える人は、死刑判決が出る可能性のある裁判に、参加すべきであるし、参加すべきではない。
なんか禅問答のような。(^_^;)
かなり難しい話になるし、個人の内面での葛藤が大きいと思います。
死刑制度が廃止になるか、
「たとえ裁判員に選ばれたとしても、死刑判決を下す可能性のない裁判に関われますように」
と願う無力な存在に自分がなっていくのを感じます。