時間がたつのが早いですね。
この前、年末だったのに、もう新年の5日です。
時間だけがどんどん過ぎていって、なすすべもなく、残念ながら流れに身を任せている感じ。
もっと時間を制御したい。
年齢とともに、そういう思いに駆られます。
もうお仕事開始されていますでしょうか?
私は、明日開始です。
休み中読書予定だけはしっかりあったのですが、
年始は、結局1冊読んだだけでした。
「奇をてらわず」
- 作者: 伊藤智永
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/03/28
- メディア: 単行本
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この本のこと私が知ったのは、朝日の書評欄です。
陸軍省高級副官
なんて、文字を見ると、右寄りな感じ受けてためらわれます。
この本は、緻密な取材を戦後生まれ(1962年)の伊藤智永さんがして書かれたノンフィクションです。
戦争中のこともかなり書かれていて、
戦争中のこと闇の中に埋もれている事実も多いことでしょうが、
私自身が、真実に迫るための努力を怠っていたこと実感しました。
そう、知ろうとする気概があれば、ある程度は戦後生まれでも知ることが出来る。
その事実が、一冊の本として私の手元にありますからね。
著者の伊藤さん毎日新聞の記者、という恵まれた点もありますが、やれば出来るのも事実です。
例えば29P
1927年3月、片岡直温蔵相の「今日の正午ごろ、渡辺銀行が破綻いたしました」(正しくは休業)
この失言が元で各地で取り付け騒ぎがおき、倒産休業に追い込まれる銀行が続出。
1929年10月のウォール街での株大暴落を景気とした世界恐慌の前に日本は不況のどん底だったようです。
私の認識は1929年がきっかけになっていましたが、
そういえば日本史の教科書はその前から不況だったこと書かれていた気がしてきました。
日本は苦境を打開しようと翌1930(昭和5)年、金輸出解禁の荒治療に踏み切るが、無残に失敗。断行した浜口雄幸首相は右翼に狙撃され、金輸出は翌年、再禁止へ逆戻りを余儀なくされる。
そうそう、これも思い出しました。
大恐慌に失政重なったのでした。
この教科書にも出ている事実。
今、生かされているのでしょうか?
リーマンショックの前から日本の景気悪かったですよね。
最初怪しい債権(サブプライムローン)が問題になったとき、
「日本の銀行はあまりその債権買ってないから、被害は少ないよ」
って言われてましたよね、実際そうでした。
だから大丈夫だったのか。
違いますね。
その後、リーマンブラザーズの倒産。
巻き込まれて日本株まで暴落しました。
浜口さんのような大胆な失政もない代わりに、大胆な政策も行われていませんね。
補助金は、政策といえるのか?
昨日の朝日・朝刊(手元の新聞で2面 時時刻刻)にも、大手家電が補助金後の市場の縮小に備えている記事出ていましたね、
リーマンショック後、日本だけが景気回復が遅れている感じ。
読んでいて、今と重なりました。
44P
1936(昭和11)年の2・26事件の記述あります。1日に見た「ワルキューレ」思い出しました。
財閥と結託した元老・重臣ら「君側の奸」を武力を持って排除し、真の天皇親政を実現して、社会に蔓延する腐敗や貧困を根絶しなけらばならない、
武力の行使は否定しますが、その思い共感できます。
ヒトラーと違って、戦前の天皇は現人神ですから天皇の暗殺は元々考えることさえなかったのでしょうね。
52〜53P
敗戦後2・26事件の戒厳令発動は、青年将校らのクーデター阻止に名を借りて、逆に軍部自らが独裁体制を敷くカウンター・クーデターとして利用したものだったもう一つの実相が明らかになった。
軍の外部勢力にそそのかされた一部の純真な将校らによって起こされた非常事態を、軍部本体がすかさず逆手に取り、軍権力がそれ自体を強化したのだ。天皇の大命も、そのお墨付きに使われたことになる。
中心となって果敢に遂行したのが、当時参本作戦課長の石原莞爾大佐であった。
天皇から、軍の独走へ、その流れを作った石原さん主役なのかも知れません。
昭和天皇は敗戦直後「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」ともらしたが、
石原さん調べました。
石原莞爾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
こんな事実発見。
東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた
93P
戦後日本は、ソ連が終戦の直前、一方的に中立条約を破って樺太・千島・満州に侵攻したことを憤るが、関特演の史実は、独ソ戦でドイツが勝っていれば、またそうなることを期待し予測して、日本が先に中立条約を破りソ連に侵攻する意図があったことを意味する。
私も、「ソ連が一方的に」信じていました。
そうでもないのですね、
戦争に条約破棄は日常茶飯事でした。
日本も状況によっては同じようなこと、行ったし、実際行っていた。
そう考えるべきかと。
関特演、本から引用してもいいのですが、私、入力遅いので、ウィキペィディアリンクします。
関東軍特種演習 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92
116P
近衛文麿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
ウィキペディアから引用します。
昭和20年(1945年)12月6日に、GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることになったことを知った。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の昭和20年(1945年)12月16日に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、2011年現在、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある[9]。
「軍部暴走」のきっかけを作った石原さんがA級戦犯ではなくて、天皇に「戦争をやめましょう」と上奏した近衛さんがA級戦犯。
基準いろいろあるのでしょうが、どういう基準か?なんかわかりにくいですね。
126P〜
玉音放送直前の、軍中枢がクーデター派と御聖断派の間で揺れ動いていたことも書かれています。
年号は当然1945(昭和20)年8月
127P
12日午後に開かれた皇族会議で各宮は和平論で一致した。異論がほとんど出なかったのは、天皇だけでなく皇族たちの間にも「言ったことが実行できていないじゃないか」という陸軍への不信、反発が根底にあった。同夜、陸軍省の課長会議があり、軍務局長の、吉積正雄中将から三笠宮の指摘が披露された。
「軍は大御心〔天皇の意向〕と反する方向に進んでいる。〔軍の憂慮より〕大御心はさらに広い。この大御心があれば国体も護持できる。兵力で護持できるか。もし敵が皇室を壊そうとするなら、正義のために壊されるのだという固きご決意である」
資料を調べると、こういった会話、今でもわかるのですね。
軍がいつから、大御心に反する方向に向かったのか?
それは本来許されることではないですね。
天皇に事実がきちんと伝わらず、勝手な暴走をした。
それが、天皇の戦争責任を追及できなかった理由の一つだと言えそうです。
さらに、天皇は皇室解体の覚悟も出来ていた。
阿南さん陸相です。
128P
夜八時頃、陸相官邸に戻った阿南は、自分から荒尾とクーデター派の主要メンバー5人を呼んだ。
引用大変なので中略(~_~;)
荒尾が代表して計画書を示し、たの参謀たちが口々に「たとえ逆臣となっても、永遠の国体護持のため、断固明日午前これを決行したい」と阿南に決起を迫った。
阿南さん容易に同調しないで、一時間熟考して、夜12時に登丁して荒尾さんに決心を示すとして、いったん散会します。
勢いのある方達に即答を避ける、阿南さん、冷静です。
荒尾さん、美山さんの同期の、荒尾興功さん当時軍司課長、クーデターのまとめ役です。
1時間後阿南は大臣室で荒尾に会い、「クーデターに訴えては国民の協力が得られないから、本土決戦は至難になろう」という遠まわしな言い方で、間接的に計画への不同意を伝えた。荒尾は改めて説得を試みることなく、あっさり退出した。
結局クーデター実行されますが、
131P
クーデターを挫折させた、決め手の一つは、阿南の自決であった。「大臣を先頭に挙軍一致」と頼んだ柱石が消えたと知るや、メンバーはいっぺんに意気喪失してしまったからだ。
阿南惟幾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
書中に、東條さんに関する記述もあります。
引用はしませんが、
私の認識少し変わりました。
この本、2005年8月13日に放送された、
「NHKスペシャル 終戦60年企画 靖国神社〜占領下の知られざる攻防」
の中で、美山さんが靖国神社にA級戦犯の合祀を主導した。
という内容に、本当にそうなの?
という疑問を検証した内容です。
靖国神社自身も、A級戦犯合祀に関しては前向きではなかったこと知ることできました。
千鳥ケ淵戦没者墓苑との関係もよくわかりました。
美山さんの、千鳥ケ淵戦没者墓苑への貢献と思いも含めてね。
この本この部分がメインなのでしょうが、
最初に書いたことの繰り返しになりますが、
私が、事実が隠蔽されている感じして、知ろうとしなかった、戦争中のことに、
1962年生まれの戦後世代の著者が、書いているということで、
特にその時代の部分今回引用してみました。