村上さんの冒険

supiritasu2008-01-07

昨日「街と、その不確かな壁」読みました。
タイトルの横に 村上春樹 と書いてなければ、
村上さんが書いた小説だと思わない人たくさんいると思います。

3作目のこの作品まで、ジャズのかかるお酒も出すお店を締めた後に作品書いていた、村上さんの生活は同じです。
でも文章が明らかに違います。
たとえて言うなら、前2作「風の歌を聴け」と「一九七三年のピンボール」は、
能ある鷹が爪を隠して書いた作品。*1
街と、その不確かな壁」は、
能ある鷹が爪を隠さず書いた作品。
そんな感じです。
でも。この作品を読まないと、前2作で村上さんが能を隠していたこと気付きませんね。
そのくらい村上さんの能凄いということです。
以前三田誠広*2さんが早稲田で小説の書き方を教えていた時の事を書いていて、
村上さんの真似をする学生さん沢山いるが、マネをするのはとっても難しいと書いていたの思い出しました。
感想です。
この作品、作者が村上春樹で無ければ芥川賞候補だろうが、受賞作だろうがかまいませんが、
村上春樹が作者である以上、この作品で芥川賞受賞して欲しくないです。
村上さんが日本の文壇に流した風がこの作品からは感じることが出来ませんでした。


では何故村上さんこの作品でこんな冒険したのでしょう。
恐らく昨日書いた芥川賞の選評で書かれたような、

外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。


今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。


現代のアメリカ化した風俗も、たしかに描くに足る題材かも知れない。しかしそれを風俗しか見えぬ浅薄な眼で捕へてゐては、文学は生れ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。

こういうデビュー当時のイメージを払拭するための冒険を3作目で試みたのだと思います。
起承転結そのまま村上さんデビュー後の4作当てはまります。
起:「風の歌を聴け」(1979年『群像』6月号)
承:「一九七三年のピンボール」(1980年『群像』3月号)
転:「街と、その不確かな壁」(1980年『文學界』9月号)
結:「羊をめぐる冒険」(1982年『群像』8月号)
転は余り成功したとはいえなかったかもしれませんが、
村上さんの文学魂に火をつけてしまいました。
「このままでは終われない」
わけです。
不退転の決意します。
店閉めてペンで食べていく決意です。
そして結で選んだのは、初期2作に出てきた、登場人物の僕・鼡・ジェイを引き続き登場させることにより、
村上さんの本来の良さを生かしつつ、外国小説風と言われた世界から距離を置くことに成功したのではないか?そう思います。
春樹ワールドの先が見えました。
そして、5作目は3作目に書いた、僕・鼡・ジェイも登場しない世界に再挑戦した、
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を書き上げるわけです。
この本、実家にあって手元に無いので、昨日「街と、その不確かな壁」読んだ後、
昨日書いた、

街と、その不確かな壁」を発展させた、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

この事実確認のため、近所の本屋に立ち読み行きました。
そのとおり!でした。
街と、その不確かな壁」に書かれていた内容で、そのまま「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に使われている部分ありました。
作品に書かれている世界が一緒です。
ただ今度は発売時は1冊でしたが文庫時には上下2冊になる長編として仕上げたわけですね。
村上さんこの作品を再挑戦することによってさらに世界を広げていったわけです。
ですので、さっきの起承転結の転と結
転「羊をめぐる冒険
結「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月 新潮社・純文学書き下ろし特別作品)
でもいいかもしれません。
そしてその後に短編小説を除けば書かれたのは、
ノルウェイの森 (1987年9月 講談社より書き下ろし)
となるわけです。
勝手な推測、
書いてしまいましたが、
街と、その不確かな壁
読んでよかったです。

*1:脳ある鷹でもネット検索引っかかりますが、私は能だと思います。脳だとあまりに直接的過ぎて味わいがなさ過ぎる気がします

*2:三田さん私の好きな作家ですので、「なんやかんや」の過去日記検索していただくと沢山ヒットすると思います。気になる方はそっちもお読みください