琉球・沖縄史

先週、18切符で移動中車内で読みました。
高等学校 琉球・沖縄史

高等学校琉球・沖縄史

高等学校琉球・沖縄史

読んだのは上記のものですが、いま検索していたら、
改訂版が出版社は違いますが、同じ著者から出ていました。
改訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化

改訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化

アマゾンで購入したのですが、申し込んでから手元に来るまで時間かかりました、地方出版社のものは時間がかかるのかもしれません。


この本を読もうと思った経緯は以前書いていますのでそっちご覧下さい。
2010-07-01沖縄史 - なんやかんや
2010-07-11第22回参議院通常選挙 - なんやかんや
この本読んで良かったです。
私達は日本史習いますが、私の記憶では琉球のことほとんど書かれていませんね。
大和朝廷とか、現代の日本につながる歴史。
天皇家の方々も多く登場しますね。
この本、沖縄史と平行して、日本史も学べるようになっていました。
旧石器気時代から記述されています。
読んでいて、琉球の方たちが一番活動的だったのは、
14世紀後半から16世紀半ばにかけての「大交易時代」と呼ばれている頃だと思いました。
それ以前から、中国(明)とは国として行き来があったのですが、
この時代の琉球は、朝鮮・日本・フィリピン・べトナム・タイ・マ
レーシア・インドネシア*1
東南アジアを又にかけて交易をしていたのです。
当時の日本は倭寇と呼ばれる海賊行為を行っている迷惑な方たちがいました。
それを室町幕府足利義満が取り締まって、明との貿易が活発になっていますね。
琉球内部での争いはありましたが、何処の国とも仲良く、交易をしていたようです。
沖縄島が多いので、石垣島のある、八重山諸島や、宮古島あたりは琉球王国以外の、別の勢力があったようです。
その島々との争いもありました。
でも、明・朝鮮・日本それぞれの国とバランスよくお付き合いしていたようです。
この頃は、日本より明とのつながりが強かったように読めました。


問題は1606年島津氏が琉球に侵攻した事。
その辺りから、自主性が失われていったようです。
ただ、島津側も中国と琉球との良好な貿易関係を維持するために、
日本(島津)という看板より、琉球という看板を上手に利用していたようです。


明治維新で1879年沖縄県が設置されますが、どうもまだ沖縄は中国に頼る部分もあったようです。
その意識が決定的に代わったのは、1894年日清戦争での、日本の勝利であったようです。
仕方ないですよね、頼りの清が日本に負けてしまったのですから。


かなり端折りますが、こんな状態で沖縄戦
日本軍は、沖縄の方たちに同じ日本人としての意識が何処まであったのか?
日本軍が沖縄でしたこと、日本国内の問題となっている部分ありますが、それで良いのだろうか?
この本読んで驚いた事実があります。
日本の敗戦は1945年8月15日。
誰でも知っていますね。
沖縄の日本軍が、公式に降伏文書に調印したの、それより後。
9月7日なのです。
完全に日本と切り離されていますね。
米軍占領下で、沖縄政府・沖縄議会は1946年4月にできて、知事や議会議員も軍政府によって任命されています。
同じ米軍支配下にあった、奄美諸島は1953年に日本に復帰しています。
沖縄の日本復帰は1972年5月15日です。
米軍支配下で、土地の強制収用があったり、大変な思いをされていたようです。
日本に復帰しても基地はまだ沢山残っています。


沖縄のこと私たち知らな過ぎますね。
沖縄の独立もひとつの手段ですが、
沖縄をシンガポールのように商業化・工業化も含めて、
本土側から押し付けるのではなく、沖縄の方たちの意思を尊重して琉球の時代のように独自の未来を切り開いていけないものか?思います。
これも逃げかな。
本当に基地の問題、沖縄の方たちの意思に沿った解決を計りたいです。
今日新聞お休みですが最新のニュースashi.comから引用します。
http://www.asahi.com/politics/update/0913/SEB201009120014.html?ref=any
http://www.asahi.com/politics/update/0913/SEB201009120014.html?ref=any

名護市議選 普天間移設反対の市長派が過半数

2010年9月13日1時22分


 米軍普天間飛行場の移設先とされる沖縄県名護市の市議会議員選挙(定数27)が12日、投開票され、同市辺野古への移設に反対する稲嶺進市長を支持する当選者が過半数を占めた。当選したのは市長派が16人、反市長派が11人。改選前は少数与党だった稲嶺市長側が大差で勝利したことで、辺野古移設はさらに困難になった。

 市議選には市長派18人、反市長派17人、その他2人の計37人が立候補。市政与党が多数を確保できるかどうかが焦点だった。普天間問題では、市長派、反市長派とも賛否双方の票を確保するために、態度を明確にしない候補が大半だった。

*1:当時の国名で書いてもわからないので今の国名で書いています。例えば当時インドネシアのあたりはマジャパヒト王国がありました。